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静岡市の御器屋町の復活はあり得ないのか?

静岡市の御器屋町という町名が昭和44年4月1日から西草深町に併合されなくなった。

私が生まれたのは昭和40年5月なので私は御器屋町29番地で誕生し、私が3歳11ヵ月の時に住所が西草深町24番22号になったわけである。


御器屋町の歴史は古く慶長12年(1607年)徳川家康が駿府城に隠居し、同14年に駿府城の一大拡築工事の竣工に引き続き、駿府の町割りがされたとされ、この町並みにより開かれた町名とその区画は明治初年の頃まではそのままで、その町数は96ヶ町この外に追手町や鷹匠町、水落各町、東草深各町、番町方面各町及び屋形町等お城や武家屋敷町として庶民以外の者の住める町として27ヶ町あり、合計124ヶ町が駿府の区域であり且つ総町数であった。


よって、御器屋町は1609年に町割されて西草深町に併合された昭和44年は1969年なので、実に360年の歴史に幕を閉じたことになる。しかし、その後昭和44年(1969年)から平成20年(2008年)現在に至るまでの39年間は何故か、西草深町御器屋区町内会が存在し続け、その町内会長が代々存在し続けて、町内の問題解決、行事等を行っているのが現実である。それほどまでにかたくなにこの御器屋町と言う町名にこだわっているならば、いっそ40年ぶりに御器屋町の町名の復活ということはあり得ないのであろうか?


もともと、どの様な経緯によって御器屋町という町名が消失し、西草深町になったのか。その時のいきさつも当時3歳であった私には知る由もない。大きく分けて二つ理由を推察する。一つは静岡市が行政区画を合理化しようとして、町内がそれに従った。二つ目は、町内会として財政的に運営が行き詰まり大きな町内会で隣接する西草深町に救済を求めた。つまり、政治的な合理化策の中で町名が消失したのか、それとも町内会自身が立ちつかなくなって独自の判断で消失の道を決定したのかである。


この二つの推察で大きく違うのは、行政の判断か自身の判断かである。しかし、後者の理由であれば、西草深町御器屋区町内会などを作って、独自の町内会長をその旧御器屋町区域から選出し、独自の予算を立て、独自の行事を企画し、そこに西草深町から異論が出ていないのも不思議である。以上のことから、私は御器屋町の町名の消失は行政区画の合理化によってなされたのではないかと仮説を立てる。


まず、この経緯について、町内会及び行政に対して今後調査をしてみたい。昭和44年当時の経緯も知らずに何を言うかと言う人もあるかと思うが、自分が生まれた町の名前が何故消えたのか調べたくなるのも自然にして素朴な疑問である。


360年もの歴史を持ち、町名消失後約40年もに渡り、いまだにその地域に住む人が大切にしている町名は、私個人的には、非常に貴重で復活が出来ないものかと考えてしまったのである。これは我がままであるのか良くわからないが、考えてみるのは自由だと感じている。


ちなみに駿府九十六ヶ町の町名と現存か消滅かが載っているサイトを見つけましたのでご覧になってください。

http://www.siz-sba.or.jp/shr/kankou/96start.htm

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