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ご先祖様も襲撃にあった「米騒動」(大正7年の出来事)

私は父から、九代米雄は米騒動の時には、自分から廉価にて米の販売をするという看板を出したので、大きな被害はなかったと伝え聞いている。

「静岡中心街誌・編者:安本博氏・静岡中心街誌編集委員会・昭和49年11月3日発行」の書籍によると安池家も米騒動が静岡で起きた大正7年8月13日の際に暴徒によって襲撃を受けたという記事を見つけた。以下記事の抜粋である。

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大正7年の夏頃、第一次大戦後の好況で、インフレ傾向が生じ、貨幣価値が下がり労働者の賃金実質はかえって低下した。その上、8月に入ると米価が、戦前の4倍にもはね上がった。この直接の原因は、シベリア出兵を見込んで、米商人の買占め、地主らの売り惜しみなどによるものであった。


7月23日、富山県魚津町の米価の高騰に悩む漁民の妻女ら200名が米の県外移出に反対して、米商人や役場を襲い、米価引下げ、困窮者救済を要求した。この事件が新聞に報道されると、8月10日頃から全国各地の主要都市で米価引下げ要求の大衆行動、投機米商人を襲撃などが続発し、同月中には農村地方都市、炭鉱地帯にも波及した。


静岡市においては「8月12日夜、宝台院で米価値下げの市民大会が開かれるであろう」と或る新聞が報じたので、8時ごろから夕涼みながらの市民が200余名集まった。はじめは「新聞が嘘を書いたけしからん」とぶつぶつ言っていた。また、「円に2升の米ではやり切れぬ」「政府が無能だ!」など不平を言っていた。8時半、9時と刻々に群集が増え、「市民大会を開け!」と叫ぶ者もあった。10時、10時半になると1200から1300に達し、すご味をおびた形勢になった。


丁度この夜静岡駅で浦塩軍司令官一行を見送りの花火が上がった。これに景気付けられ、急に群集の気持ちが高まった。形成不隠と警戒中の静岡署の警官は私服も混えて数を増やした。36~37歳の壮漢が「吾々1日働いても、わずか1升の白米を買うことが出来ない。これでどうして生活して行けるか。諸君!米屋に対し、1升30銭から35銭位に値下げするように交渉したい」と悲壮な声を張り上げて窮状を訴え、続けて更に「しかし諸君!米屋がわれわれの交渉嘆願を聞き入れなかったとしても、石を投げたり、打ちこわしをやってはいけない。諸君の中にはきっと警官が交じって居ると思う。吾々は暴動を起こすものではない」と叫んで姿を消した。こう米が天井知らずに暴騰したんでは粥もすすれない。今夜中に何とか方法を講ぜよ」或いは「全市に市民大会の貼り札をせよ」「貼り札は警察が干渉するから止めよ!」と


やがて隊伍を組んで七間町に繰り出したが、下石町を経て、再び宝台院境内に入ろうとしたが、山門前に立った河原静岡署長以下多数の警官にはばまれ、いったん解散したが、十数分の後、再び潮の如く群集が押し寄せ、午後11時頃には500余名となり、口々に好商の撲滅を叫んで居った。河原署長が一同に「諸君が騒ぐのは無理もない事で同情はするが、只かように騒いだとて何の甲斐があるか、それよりは、諸君は当局の処置を待って、決して軽率に騒いでならぬ」と穏やかにさとすと、群衆も署長だと気づき、段々と退散しはじめた。午前零時半頃には人影は無くなった。


群集は帰りながら「好商を征伐せよ」「米屋をこらしめよ」など叫び乍ら行った。中には「明日の晩、徹底的にやれ!」などと絶叫する者もあった。警察はその晩、厳重に警戒を続けた。これよりさきに静岡署では、8月11日から市内における市民の生活状況の調査に着手した。こうした時、12日の夜の宝台院の騒ぎが起こったのであった。この夜の噂は米商に脅威を与えた。市内江尻町の米商狩野藤作及び杉山金十郎の両米店は13日早朝「内地米1升40銭」の張り札を店頭で出した。


河原静岡署長は、、13日午前8時、市内の白米商186名を集めて、厳重な戒告を与えた。その要旨は、内地米のに高騰に際し、外米の販売価格は、1升22~23銭で売れば相当な利益があるにかかわらず、中には30銭以上で暴利をむさぼる者があると聞く。これらは明らかに暴利取締令に違反するものだから厳重に処分する。この際各自反省するようと言うものであった。又、静岡県の豊田県警本部長は高橋保安課長及び桑原高等科主任から、12日夜、宝台院で市民が集会した様子を聴取し、県下各警察署長に宛て管内居住の要注意人物の行動に関して、特別に注意し、臨機応変の処置をとって、暴動を未然に防ぐように厳命を発した。


8月13日夜宝台院境内に、市民がどこからともなく集合し、午後8時には3000余名となった。当面する米価高は米穀商と富豪に原因すると話し合っていた。8時半頃、職人風の男が3名交々立上って、生活苦を訴え「終日労働しても白米1升しか買えない。これでは妻子を扶養できないから餓死させてしまうばかりだ。直ちに市内の米穀商、富豪、市役所に我々の窮状を訴え、生きる道を講じよう」と叫んだ。


群集はトキの声を挙げ、東裏門から繰出し、下桶屋町、鍛治町を経、ワッショイ、ワッショイと駆け、9時頃平屋町狩野米店に至り、警官、憲兵らが制止するのに耳をかさず、雨戸をケ破り、口々にわめきながら屋内にチン入すると家人が必死で逃げ出し、空家同然になったが、なおも怒声を発して白米値下げを要求し、戸障子を破壊し、戸棚、便所等、片っ端から打ちこわし、凱歌をあげて、同店のの買占めた玄米6500俵を倉入してある、といわれる、駅前栄町の静岡米穀肥料委託株式会社に向った。同社は電灯をを消し、門を硬く閉じ、入ることが出来ないので止むをえず日の出町方面へと群集は雪崩れて行った。


また、群集が繰り出した宝台院境内に、またどこからともなく市民が集合し1000余名にもなって、口々にわめき合っていたが、37~38歳の壮漢が小高い所に上って、伴野市長を非難する演説をして、市長宅を襲って談判すべしと絶叫した。熱狂した群集は、制止する警官を袋叩きにし、集団は再び狩野米店を襲って石を投げ、橋板を投げ、電球をはずして砕き、向い側の大正看護婦会の屋上にとび上がった一隊は、瓦をはがして、雨のように米屋の屋内目掛けて投げ付けた。或者は店に積んだ俵をかつぎ出し、玄米をつかんで警官に投げ、あたりに撒きちらし、狂暴の限りを尽くした。その中で、気がついた人が新聞紙に白米1升23銭、外米21銭と大書して、店頭に貼り出し、この廉売を誓ったから、速やかに退散されたいというと、なおも怒声を上げながら引き上げ、下桶屋町の村瀬米店へ向ったが、同店ではいち早く「1升21銭」と貼り出してあったので、群集はバンザイ日の出町に向って走り、先の一団と合流して、同町の米店杉山方を襲った。


この時丁度、清水公園に集合していた群衆が、トキの声を挙げつつ来り加わり「白米1升25銭以下に値下げせよ」と迫った。そして道路の小石を屋内に投げ付け、警官の堤灯に投石し狂暴破壊の限りを尽し、結局1升27銭の貼り出しをしたのでしぶしぶと引き上げて、鋳物師町宮崎米店、同町、長谷川米店など襲うと、既に1升20銭と貼り出してあるので、群集は拍子抜けの体だったが、杉山米店の27銭は他店と比べて高すぎると、再び押し寄せ、乱暴して、ようやく要求を入れさせ、バンザイを叫んで、又、市内中心部に殺到した。


また、別に同夜、安倍川橋の付近に集まった群衆は、弥勒の多額納税者宮崎久太郎邸を襲い、木材その他をもって板塀を破壊し、大石を持って来て裏門を破り邸内にチン入し、邸内に居住する静岡署の小池、佐々木両巡査部長、及び三輪、鈴木両巡査らの居宅に投石し、警官らの制止もきかず、家屋の一部を破壊、狂暴の極りを尽し、所蔵する処の米を「1升20銭で14日から売り出す」という貼り札を出したのを見て、同家を引上げ、今度は向い側の宮崎友太郎、宮崎林蔵両家を襲って、門、板塀を破り、雨戸をケ破って土足のまま屋内にチン入し、大石を座敷内に投げ込んで暴れ、大損害を与え11時半頃に引上げた。これを知った人々は、14日午前3時頃、静穏に帰った市内に早く不正漢があらわれ、困窮者に交って、値下げの貼り札をした米店を訪れ、安売りの米を買占めを計った。


午前4時頃、米買いの群集は100余名に達し、弥勒宮崎一統へ押掛け、中には1俵、2俵を強要する者があるので、同家では、2~3升宛の販売にしようとすると、群集は承知せず、又々打ち壊しをはじめようとしたので、急報によって静岡署の警官隊が駆け付け、午前8時ようやく鎮静させた。午前10時に至り、宮崎本家は50俵、友太郎方、政吉方各20俵宛提供し、1人5升限り、1升20銭の割合で廉売することになり、残りは全部市役所に委託して販売することになった。


13日夜、平屋町狩野米店の襲撃から分れた一隊は、ワッショイ、ワッショイの掛け声と共に、本通1丁目の富豪渡辺伝八(伊豆屋=伊伝)方を襲った。そして表の格子戸を破壊し、後から練り来った一隊と合流して、一同は、土手通りを西進して、三番町に入り、同町の富豪松山英治郎方を襲い、猛烈な勢いで板塀及び表門を破壊して邸内にチン入し、土足のまま屋内に乱入し、襖、障子、ラン間を始め、家財道具のわかちなく、メチャメチャに壊した。主人はじめ家族一同いのちからがら裏口から避難した。群集は自らの暴行の凄まじさに興奮し、中には「焼き払え!」と叫ぶ者もあり、付近の住民も生きた心地はしない有様だった。暴徒の中の或者が警官の帯剣を奪い、或いは制止する憲兵を袋叩きにするなど、同家の被害は、この騒擾中、最も惨状を極めたものであった。


この一団に茶町方面を暴れ廻った1隊が合して、安西通りを襲い、安西3丁目朝比奈屋米店を襲って、1升20銭の貼り札を出させ、安西5丁目方面を荒らして引上げて来た一隊が合して、付近一帯の米屋に悉く20銭乃至22~23銭の廉売を誓わしめ、更に安西3丁目尾崎伊兵衛方で暴行投石し、転じて、安倍町の野崎彦左衛門方の表戸及び格子、塀等を破壊し、宮ケ崎の米商にも20銭の札を出さしめて、御器屋町の富豪安池米雄方に至り、橋板をはずして、エイヤ、エイヤと表戸を破り、屋内にチン入して、建具什器等、手当り次第破壊して同家を立ち出でた。

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