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「感激の至情 楽土を拓く」安池家10代安池興男

清 里 物 語  (文章は河野陽子氏によるもの)

清里は、標高千二百メートルの高原です。 水はつめたく、空はひろく、はるかに富士山が浮かんで見えます。秋と冬が長く、最低気温はマイナス二十度にまで下がることがあります。 この八ヶ岳山麓の高原が清里と呼ばれるようになったのは、たぶん明治八年からです。この年二月十五日、当時浅川村と樫山村が合併して清里村となりました。何のとりえもない、小さな村でした。

夏、清里は若者の街になります。駅前の通りも清泉寮も、民宿もペンションも喫茶店もお土産品店も、人、人、人であふれます。赤いパンツのサイクリングの一団が、牧場の間を駆け抜け、二人づれが手をつないで、ソフトクリームを買う順番を待っています。

清里は変わりました。

私たちが開拓者としてこの清里へやって来たとき、ここは一面の荒野でした。 私たちのふるさとは、東京の水ガメといわれる小河内ダム(奥多摩湖)の水の底です。

このダムを作るために、小河内、丹波山、小菅の三つの村から、九百四十五もの世帯がよそへ移り住まなければなりませんでした。山奥の小さな村で炭を焼いたり雑穀をつくったりして暮らしていた私たちは、「大東京市百年の大計」という魔物にみこまれて、反対の声一つたてることもできなかったのです。

その上、東京市の態度が二転三転し、補償金をもらって村を出るまでに六年の歳月がかかりました。村人は生活の方向を見失い、田畑は荒れ、借金がかさむ一方でした。

私たち丹波山村の二十八戸は、新天地を求めて八ヶ岳山麓念場ヶ原開拓地へ入植をきめました。受け入れ準備がまだ整っていないことも承知の上で、各戸から一人ずつの先発隊が組まれ、家族を残して村を出ました。

昭和十三年四月十七日。 途中の甲府駅で、色白の、もの静かな青年に迎えられました。山梨県耕地課のお役人で八ヶ岳開墾事務所長の安池興男氏でした。

清里駅に降り立ったとき、高原はみごとに晴れていました。まだ若かった私は、思わず「青天井はわが家なり」と心に叫んだものです。

まず当座の農具として鍬一丁ずつが手渡されました。その日から、開墾事務所の事務室と倉庫を借りの宿とし、板敷の上でゴロ寝の生活が始まりました。国や県から家を建てる補助金が下りるまでの、しばらくの辛抱のはずでした。移転のための補助金は、つもりつもった借金を返したら無くなってしまいました。ここでがんばる以外に、生きる道はないのです。

清里は、なんとだだっ広いところでしょう。 山の急斜面の畑を細々と耕していた私たちは、とまどうばかりです。

初めての一週間は、安池所長につれられて、お隣の長野県南牧村の高原農業を見学して歩きました。野辺山地区のキャベツや白菜、板橋地区の水稲栽培など、私たちの念場ヶ原よりも、もっと標高の高いところでがんばっている人たちの姿に勇気づけられました。

肥料の知識もろくにない私たちのために、安池所長は窒素、燐酸、加里の三要素の試験畑を作ってくれました。五反歩ずつの土地が割り当てられました。場所を決めるのはくじ引きです。公平を期するため、何度も引き直しました。酸性の土地を中和するために石灰がまかれ、馬鈴薯、甘薯、大豆、小豆、トウモロコシ、陸稲などの種や苗が配られました。

がんばらなければ!

三ヶ月余りがたちました。約束の家は、まだ建ちそうな気配すらありません。皆、共同生活に疲れていました。私たちはめいめいの小屋を建てたいと、安池所長に申し入れたのです。

丹波山時代の、炭焼小屋作りの知恵が生かされました。丸太を組み、杉皮を張り、入口にむしろをたらすのです。広いものでも八畳間くらいのものでした。次々に家族が呼びよせられました。家財道具といっしょに、墓石までかついで来た一家もありました。子どもたちは、六キロ離れた清里小学校へ通いはじめました。

高原での初めての収穫は大根です。青く茂った葉を握って一本一本引き抜いていったときの感激は忘れられません。

安池所長の指導で農事組合が結成されました。初出荷は大阪の市場へキャベツを二貨車。大好評と聞いて、新米の組合員は手をとり合って喜びました。

現金収入をふやすために、安池所長の勧めで野菜の行商をすることになりました。貨車で大根や馬鈴薯を甲府へ運び、所長の官舎に泊めてもらって、交替で市内を売り歩きました。

「奥さん、わしら汚れているで土間のすみで結構です」

「なにをいうのです。こちらへどうぞ」

小屋では灯りと暖をとるために、絶えず松の根がくすぶっています。着る物にも体にも松ヤニがしみこんで、異様な臭いがするのです。奥さんはそんな私たちを、丁寧に客として遇してくれました。いっしょに官舎を廻って漬け物用大根の注文までとってくれたのです。

十一月に入るとまもなく、八ヶ岳の主峰赤岳に雪が降りました。雪は二回、三回と次第に下へ降りて来て、四回めには里へ届くのです。清里高原の長く辛い冬が始まるのです。

ついにこの冬は、掘立小屋で過ごさなければなりません。安池所長が胸を痛めている様子はよくわかりました。甲府の官舎に帰っても、縁の下のこおろぎのすだく音に高原の寒さを思い、まんじりともしない夜もあったといいます。

もう一つ雪で心配なのは、子どもたちの通学です。六キロの道のりには峠もあれば渓谷もあります。大滝へ通じる道、すべりやすくて危険です。どの程度までの雪だったら、子どもたちは歩けるのでしょうか。これまでも、低学年の子を心配して、大人が交替でつきそって行っていました。けれど、開拓地には、やらなければならないことがありすぎます。私たちは、時間が惜しくてならないのです。近くに学校があったらと、切実に思うのです。八十歳になるおばあちゃんが亡くなりました。困ったことに、埋葬する場所がありません。

開拓地の人がもう何人も死んで、村の共同墓地がいっぱいになってしまったのです。所長は警察との打ち合わせで大わらわです。

これまでに死んだ人のほとんどが、老人と子どもでした。環境が悪すぎます。冬には家の中でもマイナス十二、三度にまで下がるのです。どんぶりの漬け物も飲みさしのお茶も、カチカチに凍るのです。

「とにかく家を建てなければ」

所長の奮闘が始まりました。

建坪二十五.五坪、コンクリート基礎、白壁塗り瓦葺き農家造り。建築費千円の内わけは国庫補助三百円、県百円、東京市六百円でした。日中戦争の影響で物価が上がり、千円では無理というのを私たちが雑役を手伝うことにしてやっと完成したとき、開拓地は二度めの冬に入っていました。昭和十四年のことでした。

またひとつ、頭の痛いことが持ち上がりました。子どもたちが、学校へ行かなくなってしまったのです。年長の子の、「ソレッ」という声を合図に、山道へカバンを放り出し、一日中遊んで、何くわぬ顔で帰ってきていたのでした。

「だって、みんなに、“移住民の子が来た”っていじめられるんだ」

しかし、本当に辛いのは、「くせえ、くせえ」とはやしたてられることだったのです。 松ヤニの臭いのせいです。けれど、どんなに嫌われようと、家の中で松の根を燃やさなければ、まっくらな中で寒さにふるえていなければならないではありませんか。子どもを叱る親の胸に、学校がほしいという願いがますます強くなりました。しかし二教室百坪の分教所を建てるのに一万二千円もかかるのです。

安池所長が奔走すると、小河内貯水池建設事務所の協力で、東京市が八千円出してくれることになりました。けれど国庫の補助三千円の申請は、「そんな小さな開拓地に分教所はぜいたく」と、あっさり却下されてしまいました。

折も折、八千二百五十円で後者の建築を請けるという業者が現れました。わらにもすがりたい私たちは、不足分は勤労奉仕で補うことにして来春四月の開校をめざしたのです。

ところがその業者は物価高騰を理由にチビチビとお金をせびり、契約金額を超えたとたん姿をくらましてしまいました。下請けの大工も賃金不払いを理由に現れようとしません。ようやく棟上げを終えたばかりの校舎は、風雨にさらされるばかりです。

そんな状況に不安と不満を抱いた五戸が、集団協力から外れたいと申し出ました。家や畑はそのまま、行動は今後一切自由、農事組合も脱けるというのです。何という身勝手。心配する安池所長に「共倒れはごめんだ。あんたにはもうついて行けない」と捨てゼリフを投げつけ、仲間から離れたのです。二十八戸のうち、補償金の残りをわずかでも握っていた連中でした。

「諸君。僕は今日、上司より広島県へ栄転の内示を受けました。だが僕は辞退した。僕がいなくなったら君たちはどうなる。今日までの苦闘の道を知っているのは僕だけだ。課長は怒ったよ。今後、僕の将来についての責任は一切追わないそうだ。だかこれまでだって、僕のやり方を行き過ぎだと責めるばかりで、何一つ協力してくれたことはない。部長にはネクタイを投げつけられて、捨て犬のように追い払われたこともある。開墾所長が入植者の身の上を案じて相談に行って、何が悪いというのか。僕は、いざとなったら役人をやめる。君たちといっしょにこの事業を仕上げるまで、ここを動かない。どうか僕を信じてついて来てほしい」

日頃は静かな安池所長の、火を吐くような訴えでした。入植以来、私たちの胸の底にあった“いつかどこかへ行ってしまう人”という不安は消え、この所長のいる間に、自分たちの身の始末をつけなければと決心したのです。

 「僕は、静岡にいる父から金を借りることにした。それで一気に、学校を完成させようではないか」仲間の代表二人を伴って、所長は静岡へ発ちました。

その留守を知って大工がのりこんできたのです。建築現場から資材や工具類を持ち出そうとし、例の五人がそれに加担しました。

急を知って駆けつけた私たち。夕暮れの清里駅でまさに血の雨が降る寸前でした。大きい資材はとり押さえたものの、夜具にくるまれた釘、針金、ボルト一式すべて持ち去られたのです。戦時色濃く、現物入手の困難な時期でありました。

「安池所長に知らせなければ」

あくる朝の始発列車が待ちきれません。夜十時、私ら若者二人は提灯四十キロの山道を駆け下りたのです。

明け方韮崎まで来てさすがに疲れた私たちは、駅前の石の上にしばしまどろみ、甲府の官舎に着いたのは朝八時。何も知らない所長たちは金策の成功を喜びあいながら、朝の食事の最中でした。

二人の顔を見たとたんに、所長は異変を察したようでした。

「なぜ、これほどまでに苦労をさせなければならないのか。東京市民のために犠牲になった君たちだというのに…」幼い子のように泣きじゃくる私たちの手を握りしめた所長の頬にも、涙が流れました。

年寄りが腰をかがめてお茶を運んできます。

幼い子が足許の邪魔な小石を拾っています。

屋根の上と下とで声をかけあっています。

安池所長が廊下の板を打ちつけています。

仲間に、大工の技術を持つ青年がいることは幸せでした。“一致協力、昼夜兼行”といいますが、専門家にあと半年はかかるといわれた工事を、私たちはなんと二十日で仕上げてしまったのです。二十三戸の全員が、燃えに燃えた二十日間でした。

清里高原の防風林に囲まれた一角に、分教場は建ちました。

教室はたった二部屋ですが、職員室もあります。宿直室もあります。

高原の朝もやの中を、安池所長が鈴を振り歩いています。工事の竣工を祝って内輪の会を開こうと、一件一件知らせに廻っているのです。

木の香りも新しい分教場に手料理を持ち寄って、祝宴は始まりました。

酒がまわるほどに、これまでの苦労の一つ一つが胸にせまり、嬉しいとも悔しいともつかぬ涙があふれます。胸のもやもやを何かにぶつけたく、わけもわからぬうちに喧嘩となり、誰かが鼻血を出しました。 「やめろ!君たちは、さらの校舎を血で汚すのか」鋭い所長の声でした。

「ここまで我々を支えてきたのは何か。ただ、お互いの信頼感だけじゃないか。君たちは金が無いから真剣だった。貧乏だから団結した。富必ずしも財ならず、脱落した五人に今日の喜びはない」

昭和十五年七月二十五日。待ちに待った開校式の日はやってきました。

挨拶に立った安池所長は、壇上で感動のあまり声も出ません。大人も子どもも、頭を低くたれて、嗚咽にむせんでいました。式のあと、子どもたちの劇が演じられました。この日のために、一ヶ月もかけて懸命に練習してきたのです。私たちは、久しぶりに腹の底から笑い、喝采をしました。

昭和十六年六月、安池所長は奈良県耕地課長に任ぜられました。

思えばこの三年の間、所長は役人としての立場と私たちを思う心との板ばさみに耐えてきました。

所長を白眼視していた上司たちも、戦局が急を告げ、食糧増産が重要な国策となって、八ヶ岳開墾事業を成し遂げた所長を見直したのでしょうか。

分教場建設の負債を、返済している最中です。農事組合による自作農創設事業も始めたばかりです。でも、もう自分たちでやらなければなりません。前途ある青年をいつまでもひきとめるわけにはいきません。

清里駅で私たちは泣きました。

父とも兄とも慕った所長さん、安池先生さようなら

さようなら  さようなら

所長が去って半年、太平洋戦争が始まりました。この開拓地からも何人もの男が出征し、何人かが帰って来ませんでした。小河内ダムの工事も中断されたと聞きました。そんな中で、昭和十九年十月負債を完済、ついで自作農創設を完了。私たちは久しぶりに安池所長に手紙を書きました。

「おかげさまで晴れて地主になりました。夢のようです」と…。

所長がいなくなってかなりたってから、私たちは初めてある事実を知りました。

入植して一年あまり、肥料や種苗類はすべて県からの支給と思っていたのが、実は所長の自弁だったというのです。所長は給料の一年分のほとんどを、私たちにつぎ込んでくれたのでした。

最小限の営農資金も認めようとしなかった県が私たちにくれたのは、結局鍬一丁だけだったのです。

終戦後、国は食糧難打開のため開拓政策に力を入れ、清里にも続々と新しい入植者が送りこまれてきました。その第一陣が、現在旭ヶ丘地区にいる人たちです。八年先輩に当たる私たちの暮らしの貧しさに、この人たちは目を見はりました。

しかし国で力をといっても、さまざまな名目の資金は、結局入植者の肩に借金となってのしかかってくるものばかりです。旭ヶ丘に続いて、東念場、下念場と入植者はふえ続けましたが、やはり苦労は絶えなかったようです。

立教大学のポール・ラッシュ博士が、戦前からの大学の施設を充実させて清里農村センターを開設されたのも、この頃のことです。立派な教会や実験農場、病院、図書館などが作られ、近在の農家との交流もさかんに行われました。

ことに、毎年八月に開かれた、カンティフェアは、私たち農家にとって最大のおまつりでした。牛や牧草地の共進会で、私たちは成績を競いあいました。農業技術や酪農の研究会もありました。小学校の子どもたちにミルクを支給してくれた時期もあり、そのお礼に農場のまわりの草刈りに行ったりもしました。

やがて、都会の若者がぼつぼつと清里を訪れるようになり、センターの宿泊施設、清泉寮は人気の的になりました。

清里は次第に観光地化してきました。私たちの仲間が民宿に転向し始めたのは、昭和四十四年頃からです。私も今は、牧場と民宿を経営しております。

清里村は近くの四つの村と合併し、高根町となりました。昭和四十六年、高原の牧草地の一角に、私たちの共同墓地が完成しました。

整然と並ぶ二十三の墓石は、はるかふるさとの丹波山村に向かって立っています。その姿を見守るように、一番奥に安池先生の墓もあります。生前のお墓です。

その裏に先生は、「感激の至情 楽土を拓く 興男」と刻まれました。苦楽を共にした仲間は、もう多くは残っていません。いずれは全員が、この黒御影の石の下で、高原の青天井を見上げながら眠りにつくことでしょう。

奥多摩湖と名が改められ、東京都のいこいの場として愛されているそうです。

緑にかこまれて、湖のの空のように今日も青く澄んでいるでしょうか。 ////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

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